神に祈るという事

挨拶としての祈り、形式としての祈り、本音での祈り。
公的な祈り、私的な祈り・・。

様々な祈りがあります。
「信仰講座」の祈りについての冊子を持ち出せば、立派な事が書けるのですが、
今回は私が感じることを書きます。

これでも、一応信仰者の端くれです。
ブログにおいて、例えば統一教会に関して、反対派の方から質問、或いは批判された時、
その返事を書くときは、祈ってから書いています。(祈りの効果ゼロかもしれませんが)
私にはその価値はありませんが、「どうか、神様がその方に語りたい内容を私を通して、伝える事が出来ますように」と、自分の思い(例えば怒りなど)ではなく、できるだけ神様の思いに添って接したいと願っていました。

また、非常に微妙な問題にコメントする場合も、
「神様の願われる方向へ導かれますように」と祈ります。(たいした祈祷力はありませんが)
どうすればいいのか悩む場合は、自分の、個人的な思いにならないように真剣に祈って対します。

祈って行動した結果が悪くても、それは自業自得です。でも、その信仰生命を救う為に神が選ばれた方法だったのかもしれません。
失敗したように見えても、その結果が及ぼす影響が、神様のお導きである事があるからです。
内包していた問題点(私に見えるのは私自身の問題点だけですが)が明らかになったのかもしれません。
それを隠したままで、表面を取り繕って行けばいつしか、本当に神様から離れてしまいます。

真剣に祈って行動した事柄だから、自分自身は全ての結果を受け入れる覚悟が出来ています。
しかし、その行動が、周りを傷つけている場合があります。
傷ついた人に対して、「神様のお導きかもしれませんから」とは言えません。
私が間違っていました、とお詫びする以外にありません。たしかに、間違っていたのだし。

誰かがいわれの無い傷を受けてしまったなら、その傷に聖霊の癒しがある事を信じたい。(都合の良い考え方ですが)


信仰生活をしていると、行き詰まる事があります。
前線に出たくないし、もう、教会を離れてしまおうかという気持ちになる事があります。
いつも元気に信仰的だった人が、ある日突然、誰にも何も言わずに教会を去っていく事がありました。
 かと思えば、しょっちゅう悩んだり落ち込んだりしているけれど、上の人に意識されて、話を聞いてもらったりして、結局一度も離れることなく信仰している人もいます。
悩むと、祈る事も出来なくなるし、その悩みを人に話す元気もなくなります。

でも、心のどこかに残っている「信仰生活を続けたい」という思いが、最後に一言“自分はもう限界だ”と上の人に告げに行きます。そこでたいていは、持ち直します。

最後に祈ってみることで、救われる事があるのも確かです。

他の記事のコメントでも書きましたが、
神様の願いと同じだったのに、叶えられなかった願いというものもあります。
(イエス・キリストが十字架に掛かってしまった事を指して書きました)
だから、神様に祈って行動したのに、神の願いの方向には行かなかったこともきっと多いと思います。
祈りが、神様が受け取る事が出来ない、自己中心的な思いだったのかもしれません。

そして、良かれと思っていても、その思いが実は自己中心的な思いであったために、結局不和だけを残すという事があります。
み言に、「何か思う事があっても、口に出さず、神様に祈って、結果は天に委ねなさい」というのがあります。
祈りの力を信じて、ウカツな行動は慎むのが本当の信仰者であり、祈りの力を最大限に発揮できるのだと、悟りました。

祈ったからと言って、すぐに結果が出るわけではないので、それを信じて待つ事が信仰ということでしょうか。もちろん、いつもただ祈るだけでは、だめですが。





▲祈りには、「請求書的」なものと「領収書的」なものがあるそうです。前者は、「神様わたしはこうやって神様に祈っているのですから、わたしの願いをかなえてください」というもの。後者は、「神様、ありがとうございます。おかげさまで今日もいろいろありましたが無事過ごすとができました」という祈りです。
2005/10/25(火) 午後 10:26 [ - ] 返信する

▲神様が人の愛、情けを求めているわけじゃないと思います。神の愛を人がわかるか、そうでないか、神は人を試しておられるのじゃないでしょうか? ▲神の名を使って、この世の中いろんな社会的問題が起きています。それでも神様は黙ってみておられる。人を試しておられるのでしょうねえ。
2005/10/25(火) 午後 10:27 [ - ] 返信する

この記事は私個人的な内容です。統一教会の全体の摂理の為の祈りとか、教会全体の行動パターンやその問題点とは関係ありません。m(__)m
2005/10/25(火) 午後 10:50 返信する